仙台市青葉区にある
仙台市立片平丁小学校(かたひらちょうしょうがっこう)
この片平丁小学校の概要
- 児童数や学級数
- 通学区域
- 口コミ・評判
- いじめ対策について
- 学区内の町の由来や歴史
など紹介しています。
近々小学校に上がるお子さんがいる方、転勤で仙台にいらっしゃる方、ご参考にしてください。
片平丁は伊達政宗の右目、片倉小十郎も住んでいた街じゃ
仙台市立片平丁小学校の児童数、学級数、進学中学校
- 住所:仙台市青葉区片平1丁目7-1
- 電話:022-223-3846
- 学級数:20(1学年3学級、特学2学級)
- 児童数:542人
- 進学中学校:五橋中学校
- 最寄りバス停:片平丁小学校前から徒歩1分
- 最寄り地下鉄駅:大町西公園駅から徒歩8分
片平丁小学校沿革
- 明治6年五番小学校として創立、明治7年片平丁小学校に改称
- 平成20年校庭芝生化工事完了
※児童数・学級数データは令和4年
卒業生・有名人
- 志賀潔(赤痢菌を発見した細菌学者)
- 西澤潤一(半導体の世界的権威)
- 校歌の作詞者は仙台出身の土井晩翠
片平丁小学校の通学区域
下記の住所が「仙台市立片平丁小学校」の通学区になります。
青葉区
- 一番町1丁目3~4
- 一番町1丁目5-8~5の終り
- 一番町1丁目5-8~5の終り
- 一番町1丁目10~17
- 一番町2丁目5-15~5-26
- 一番町2丁目6-16~6-25
- 一番町2丁目7-12~7-24
- 一番町2丁目8~11
- 大手町
- 大町1丁目1-1~1-12
- 大町1丁目1-33~1の終り
- 大町1丁目2-8~2-16
- 大町2丁目1-1~1-5
- 大町2丁目1-24~2-10
- 大町2丁目2-33~2-35
- 霊屋下(おたまやした)
- 片平1丁目
- 片平2丁目
- 花壇
- 北目町2-6~6
- 北目町7-11~7-25
- 米ケ袋1丁目
- 米ケ袋2丁目
- 米ケ袋3丁目
- 土樋1丁目4-19~4-27
- 土樋1丁目4-30~4の終り
- 土樋1丁目6~6-24
※上記は片平丁小学校が指定学校の住所です。学区境界の住所地では選択可能校がある場合もあります。通学区見直しなどもあるため、必ずご確認ください。
気になったら駅名・住所で住まいを探してみましょう。電話不要、メールで問い合わせできます。
片平丁小学校のいじめ対策について
いじめに関しては、親として非常に気になるところです。
しかし、実際に片平丁小学校に子供が行っている親でも把握するのは難しいのが現状です。
こちらでは、仙台市立片平丁小学校が出している「いじめ防止のための対策」としてどんなことを行っているのか紹介します。
※pdfファイルです。スマホで見れない場合は、Adobe Acrobat Readerなどpdfファイル表示アプリをご利用ください
片平丁小学校の評判・口コミ
片平丁小学校は仙台高等裁判所と東北大学片平キャンパスとの間にあり、すぐ西側には評定河原野球場が見下ろす立地です。 仙台市中心部の商業地域とその周辺の住宅地との境目地域にあり、市内でも有数の高級住宅地に上げられる地域です。 明治6年開校の歴史を持ち、本校の出身者としては細菌学者で有名な志賀潔博士の他、文化勲章受章者が3名もいる学校です。すごいですねー。 1学年2〜3クラスで全校児童は450人程度ですが、校庭の遊具はけっこう多いほうで、平成20年には校庭前面に芝生が植えられたので、校庭で児童が遊んだり・運動したりといった姿が生き生きと感じられる学校です。
仙台市青葉区の都心部にある小学校です。 仙台高等裁判所と東北大学片平キャンパスに挟まれた場所にあります。 留学生の子弟が多く在籍して居るのも特徴です。 志賀潔など数々の著名人を輩出しており、教育環境も高く、校庭の芝生化も行なっており、子供達のすごしやすい環境になっています。
片平丁小学校学区内の町の歴史
現在の仙台市の基礎を作った伊達政宗の城下町仙台は、
- 仙台城(青葉城)を出て広瀬川の大橋を渡り大町(七夕が飾られるアーケード街のマーブルロードおおまち)へつながる東西幹線
- 城下町建設に伴い導入した南北幹線の奥州街道(現国分町通り)
この東西と南北を走る道路を基軸に、碁盤の目状に町割りが行われました。
また、街は侍(さむらい)の住む「丁(ちょう)」と、足軽、町人、職人が住む「町(まち)」に区別されていました。
片平丁の由来
仙台の街は広瀬川の河岸段丘の上に出来ています。
江戸時代から現代まで仙台の中心街がある仙台中町段丘と、広瀬川の水面に近い仙台下町段丘の間には崖があります。
この崖のすぐ上が片平丁です。
江戸時代には北は現在の支倉町から南は田町(東北学院大土樋キャンパス付近)までの崖の上の弓状の地域を片平丁と呼び、道路を前に広瀬川を挟んで仙台城(青葉城)と対峙していました。
このような地形のため「片平丁」と名付けられ、ここに伊達氏一族および仙台藩重臣の大きな屋敷が置かれていました。
寛文7・8年(1667-1668)の城下絵図によると、
- 伊達政宗の右目として絶大な信頼を受けた「片倉小十郎」(現在の西公園内)
- 伊達騒動の中心的人物「原田甲斐」(現在の仙台高等裁判所・片平丁小学校)
の屋敷もここにありました。
※片倉小十郎の屋敷はその後、大橋を渡った仙台城直下に移動
米ケ袋
片平丁に面して、広瀬川に向かって緩やかに傾斜した段丘の一円が米ケ袋です。
昔は仙台ヶ原と呼ばれ、うずらやうぐいすが多く棲んでいました。
江戸時代には、鷹匠(たかしょう)や餌差(えさし:鷹のエサの小鳥を捕まえる役)が多く居住するところでした。
霊屋下(おたまやした)
仙台藩初代藩主伊達政宗は生前、自らの死後に遺骸を経ヶ峯に葬るよう遺言し、1636年(寛永13年)に没しました。
2代藩主の忠宗は政宗の遺言に従い、政宗の御霊屋(おたまや、霊廟)を経ヶ峯に建立して「瑞鳳殿」と命名しました。
その後2代藩主忠宗の霊廟「感仙殿」、3代藩主綱宗の霊廟「善応殿」なども建てられ、この下にある町を御霊屋下と呼びました。
近年「御」の字を省き、霊屋下(おたまやした)と呼んでいます。
花壇
仙台城のある青葉山と政宗の廟所のある経ヶ峰の間にあり、片平丁のがけ下から半島状に突き出た所が花壇と呼ばれています。
初代藩主政宗公の治世の頃、この南端に御花壇(御花畑)があったので花壇と呼ばれました。
江戸時代この東側に評定所が置かれ罪人の刑罰おこなったので、評定河原野球場、評定河原橋などの名前が残っています。
評定所内にあった処刑場は、その後米ケ袋に移され、元禄年間に七北田(現泉区七北田杉ノ田)に移されました。
片平丁小学校の概要、通学区、いじめ対策、評判・口コミおよび学区内の町の名前の由来について紹介いたしました。
片平丁小学校へ進学、転校する際の参考にしていただければ幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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